お隠れになる
高貴な人物の死の表現として、お隠れになるという言葉がある。
僕はこの表現が好きだ。
世界から完全に消え去ったのではなく、あくまで隠れているだけなので、どこかに存在していて見守ってくれたりいつか再会できるような気がする。
そこには、あらゆるものに魂が宿るという神道的な考えと仏教的な輪廻転生の考えがあるように思える。
為政者にとって、お隠れになられたという表現はひょっとしたら都合の良いものだったのかもしれない。
なぜなら残された民にかすかな希望を与える表現だからだ。
例えばXjapanのhideが死んだとき、HURRY GO AROUNDの歌詞、"また春に会いましょう"を聞いて慰められたファンも多い思う。
(くるりは東京で季節に敏感でいたいと歌っていたけどここ数年に本当にそうだなと思う。都市にいると企業のプロモーションからしか季節を感じれない。)
魂よりもより物理的なものを充実するヨーロッパでは火葬はあまり行わない。
最後の審判で復活できなくなるからだそうだ。
もちろんそれもあるだろうが、そこに存在するという感覚が欲しかったのかもしれない。
(余談だがこの土葬文化はゾンビのルーツだと思う。一方で死が清潔なものになっても穢れという概念は強く残っている。穢れという考えはより本能的なものなのだろう。)
ひょっとしたらあらゆる別れには希望が必要なのかもしれない。
さよならだけが人生だ。
さよならが次の出会いのための下準備だと考えたら、少しは悪くないんじゃないか。